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【2026/02/16 06:32 】 |
「ハイブリッド車の接近を知らせる大発明」から始まるお話!
ハイブリッド車のモータ音が小さい為、ハイブリッド車の接近に気付かずに事故になることが多いらしい。
この問題を解決する大発明をした人がいる
   その発明を紹介する記事はここ をクリック emoji

ところが、カーディーラーの人と話をすると、「夜間などに、音を停めることが出来ないので、(上記に記載の発明は)駄目だ。」と言う。
でも、道路交通法規上は、「音を出すのを停める機構を装備してはいけない。」ことが定められています
   ・国土交通省の 報道・広報 「ハイブリッド自動車等の車両接近通報装置」及び「前照灯の自動点灯機能」を義務付けます。ここ をクリック emoji
   ・国交省 ハイブリッド車の車両接近通報装置、オートライトを義務化 はここ をクリック emoji
---転記始め---
ハイブリッド車の場合はモーター走行で25km/h以下の走行、またはバックの状態の場合、車速に応じてスピーカーから可変音階でメロディー音を出すようになっているが、現状ではオン/オフのスイッチも装備されている。今回の義務化に伴い、オフ・スイッチは禁止され、常時作動することが求められる。
---転記終わり---
   ・転記元は 国交省 ハイブリッド車の車両接近通報装置、オートライトを義務化ここ をクリック emoji

つまり、上記の発明のように、「夜間でも、音を停めることが出来ない。」ことはデメリットではなく、必須要件に変わりましたemoji

この様に、自動車メーカが、上記の大発明を採用しないとほざくことには呆れてしまいます
また、上記の大発明は、構造が単純であり、故障する可能性が極めて低い

---転記はじめ---

中3が「ハイブリッド車の低速時のみ発音装置」を発明、特許を出願中

静かすぎるHV車に低速時のみ「発音装置」、中3が発明
 ハイブリッド車(HV)や電気自動車が静かすぎて、接近しても歩行者が気づかない問題で、兵庫県明石市の藤原丸(まる)君(14)が名案を思いついた。タイヤに取り付けるだけの装置が、低速時だけ自動的に「カチャカチャ」と音を出す仕組み。現在、特許を出願中だ。

 発明した藤原君は同市立二見中の3年生。新聞で、「モーターで動く車はエンジン車と違って静かなため、視覚障害者や高齢者にとって危険だ」と知り、あれこれ考えた。

 「そうだ。タイヤの遠心力をつかえば……」とひらめき、今回の装置を考案した。 細長く平たいジュラルミンのケース(長さ約12.5センチ、幅約3センチ)の中に、10円玉のような円形の金属片を入れる。このケースをタイヤホイールにナットで固定すると、タイヤの回転にあわせて金属片が動き、「カチャカチャ」と音が鳴る。時速約20キロを超えると遠心力で金属片は動かなくなり、音がしなくなる。
(後略:朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0827/TKY200908270167.html

新「発音装置」の仕組み
1

 中学3年生のすごい発明。
 これと同様な発明はすでに成されているが、藤原君はすごいと思う。

 ただ、難点があるんだよね。
 まず、音を聞いたがあれはうるさいと思う。

 それに、ホイールに装着するタイプのものは、何らかの理由でそれが外れた時、後続車両などに対し、かなりの危険を及ぼすおそれがある。

 それに、これはもっと根本的な問題なんだけど・・・

 どういう発明をしようと、『聴覚障害者』には何の関係もないって事。

 ハイブリッドは静か過ぎて危険、なんて事を言い出したのは健常者だろ。
 自分たちが道の真ん中をダラダラ歩いて車両に迷惑をかけている事は棚に上げて、静か過ぎる車が悪いと来た。
 
 もともと聴覚障害者はどうやって車両を避けていたのか?
 それは、道の端っこを歩き、周りを良く見て確認し、気配で感じるという事をしてたんだろう。

 みんなそうしろ、それで解決だよ(苦笑)

 確認しづらい細い道なんかで、出会い頭に車にはねられるパターンが多いと思うが、それは車も人間も、『ここから急に出てくるかも』と思って徐行して確認すればよい。
 そういう事はみんな『教習所』で習ってる。

 自分の確認不足を他人のせいにするのが間違い。

 それに、騒音問題では『うるさい、静かにしろ』と言うのに、この問題では『静か過ぎる、音を出せ』って矛盾してるよ。
 この手の『ON OFFの切り替えが出来ない』ものだと、深夜の住宅街なんかに帰って来る車は非常に気を遣うだろ。
 
 何事も、いろんな方面から見て物を言わないと正しい解決にはならないと思うぞ。


---転記終わり---
   ・転記元は 『いい発明だけど、根本的な解決にはならない』[最後の聖戦 イニシャルM](ここ をクリック emoji

上記に追記したブログ記事でも、
 この手の『ON OFFの切り替えが出来ない』ものだと、深夜の住宅街なんかに帰って来る車は非常に気を遣うだろ。
 
 何事も、いろんな方面から見て物を言わないと正しい解決にはならないと思うぞ。
」と、したり顔で記述している。
 だが、本記事のトップに記載の通り、
---転記始め---
ハイブリッド車の場合はモーター走行で25km/h以下の走行、またはバックの状態の場合、車速に応じてスピーカーから可変音階でメロディー音を出すようになっているが、現状ではオン/オフのスイッチも装備されている。今回の義務化に伴い、オフ・スイッチは禁止され、常時作動することが求められる。
---転記終わり---   ⇐2017年6月12日追記
   ・転記元は 国交省 ハイブリッド車の車両接近通報装置、オートライトを義務化ここ をクリック emoji
上記に再転記の通り、
今回の義務化に伴い、オフ・スイッチは禁止され常時作動することが求められる
のであって、
この手の『ON OFFの切り替えが出来ない』ものだと、深夜の住宅街なんかに帰って来る車は非常に気を遣うだろ。」と、したり顔で、記事を書く のは、どうせ、馬鹿とブスこそ東大に行け!の東大出身者 なのだろうネ

また、
---転記はじめ---
 それに、ホイールに装着するタイプのものは、何らかの理由でそれが外れた時、後続車両などに対し、かなりの危険を及ぼすおそれがある。
---転記終わり---
と、ほざく。
 ホイールが外れるのは、この度、天罰を受けて、日産の子会社になった、リコール隠し自動車 三菱自動車くらいのモノじゃないのか?

 ホイールが外れると言う、欠陥製品を製造販売していたリコール隠し自動車 三菱自動車だけだろう。
 ホイールは外れてはいけないモノなんだよ
 ホイールが外れるのは、リコール隠し自動車だけなんだよ!

 それを、したり顔で、堂々と記事にするって、お前は、馬鹿とブスこそ東大に行け!の東大出身者だろ!?
 だから、東大出身者は、東日本大震災後、全国の電力会社が、原発の運転を停止すると、ノコノコと東大に出向き、デタラメな講演会を開く!!
   極悪犯罪企業 三菱重工の犯罪者 佃和夫の嘘ここ をクリック emoji


故障する危険性が極めて低いことは、安全装置として、必須条件であるともいえます
どれほど有益な装置であっても、その構造が複雑で、故障する可能性が高い場合には、安全装置として、採用すべきではアリマセン

最近、テレビで見たのですが、飛行機の油圧が下がり、車輪を出せないと言う状況になった。飛行機には、油圧機構がトラブった際のバックアップがあるのだが、何という事でしょう!?
その時、バックアップ装置も機能しなかった。
   この番組のことを詳細に紹介している記事はここ をクリック emoji

上記に記載の記事のように、油圧系統が故障したと言うことで、飛行機の重要な機能が使えなくなると言うことはあってはならないことです

ですから、重要な装置はなるべく単純で、故障する可能性が低いことが重要なことなのです

ハイブリッド車の接近に気付くように、音を出す装置は、上記に記載の発明のように、機構が単純で、故障する可能性が低く、音の発生を停めるような構造を持たぬものがベストなのです。

ですから、カーディーラーのおっちゃんが、「夜間の音を小さくする機構が無いので駄目だ、」などと言う発想をすること自体、自動車の安全性を無視した発想であると言えます

また、上記に記載のハイブリッド車の接近が解るように音を出す装置は、構造が単純であり、故障する確率がとても低いので、ハイブリッド車の接近を知らせるために音を出す装置として、必要な条件を全て備えたとても優秀な装置です。

機構が単純であるがゆえに、故障する確率が低いだけでなく、コストも安い。つまり、「安くて美味い」と言うこれ以上ないハイブリッド車の接近を知らせる装置なのです

これ程素晴らしい大発明を採用せずに、電子部品などを使い、音を発生するような装置(下記でご紹介しているような商品)をハイブリッド車に取り付けることを考える五流エンジニアが在籍する自動車メーカは、どこぞのリコール隠し自動車 三菱自動車 のように、消滅するだけでしょうネ


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【2017/07/10 19:26 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
テキサス州の石油開発!
ここ に記載の通り、

新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、元々産油国である

テキサス州の石油ブームここ )をクリック emojiに記載の通り、

---転記始め---

テキサス州の石油ブーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
スピンドルトップでアンソニー・F・ルーカスが掘り当てた油井、テキサス州で最初の大きな油井になった。

テキサス州の石油ブーム: Texas Oil Boom)は、20世紀初期にアメリカ合衆国テキサス州で石油が発見されてから、劇的な変化と経済成長が起こった時代を指す言葉である。噴出時代: Gusher Age)とも呼ばれる。ボーモントの近くで発見された石油は、その埋蔵量が前例の無いくらいの量であり、アメリカ史の中でもほとんど無かったような急速な地域発展と工業化時代の火付け役となった。テキサス州は直ぐにオクラホマ州カリフォルニア州と並んで国内でも石油生産高の高い州になった。そして、アメリカ合衆国の石油生産高は当時のロシア帝国と並ぶようになった。1940年代になると、テキサス州は国内で最も生産高の高い州になった。世界の石油時代の始まりをこのテキサス州での石油ブームの始まりに置く歴史家も居る[1]

石油探査と投機を拡大させ始めた大きな「当たり」はテキサス州南東部でだったが、間もなく州全体で埋蔵量が確認され、北テキサス、東テキサスおよび西テキサスのパーミアン盆地でも油井が建設された。これに先立って19世紀にも限られた量の石油が発見されていたが、1901年にボーモント近くのスピンドルトップで発見されたものは全国的な注目を浴び、石油探査と開発を加速させ、それが1920年代以降まで続くことになった。スピンドルトップと、世界恐慌の始まり時期にあった東テキサスでのジョイナーの石油発見が、この変化の時代の重要な転換点となった。

この時代はテキサス州を大きく変革させた。20世紀への変わり目でのテキサス州は、特に大きな都市も無く、大半が田園部だった[2]。それが第二次世界大戦が終わるまでに、州内の工業化が大きく進み、都市の人口では国内20傑に入ってくるものがあった[3]。中でもヒューストン市はこのブームの恩恵を受けた最大の都市であり、その都市圏は世界でも最大級に石油精製石油化学プラントが集積される地域となった[4]。ヒューストン市は1900年時点で小さな商業中心に過ぎなかったが、その後の数十年間に国内でも最大級の都市となった。しかし、この期間ではテキサス州の全ての商業中心が変化しており、石油ブームが始まったボーモントとポートアーサーの地域も発展した。

この時代に最も影響力があった事業家といえば、ヒュー・ロイ・カレン、H・L・ハント、シド・W・リチャードソン、クリント・マーチソンの4人だった。彼らは州内および国内で最も富裕な者となり、政治的な影響力も大きかった。

---転記終わり---

上記に転記の通り、新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、元々産油国である。その後、新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、自国内の石油消費量が増えた為、中東など世界中で石油開発を進めた。

だが、アラブ諸国の資源を新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)に奪い取られることに対する反発が起きて、

(ここ以下は2,018年2月3日 追記)

アラブ諸国は、石油輸出国機構ここ をクリック emoji)を設立して、石油資源の採掘並びに販売(輸出)の主導権を国際石油資本(メジャーズ)から取り戻した。

この為、

新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、産油国として認識されなくなったが、

元々、石油産業は、新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)から始まっただけでなく、

新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、自国産の石油だけでは足りず、世界最大級の石油輸入国である。

つまり、現在の地球温暖化問題の元凶国は、新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)である ❣

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【2017/07/09 18:47 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
山下江弁護士には理解できない、犯罪者 佃和夫の犯罪の数々のお話!!
極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 は、広島県立障害者リハビリテーションセンターで凡そ2ヶ月間かけて、正規の検査を受けた結果、

高次機能障害者であると判明した、極悪犯罪企業 三菱重工 のHIP、CIP、食品加圧機械事業を立て直した恩人である私を不当解雇した

しかも、当時の上司であったヤマサキヒロキは、連日我が家に押しかけて、
我が家のリビングに座って退職強要を繰り返した

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の後輩である、山下江弁護士は、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の不当解雇並びに就労妨害が、極めて悪質な犯罪であるという事実も理解できないのでしょうかネemoji

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の後輩である、山下江弁護士は、相続が専門だから、パワハラスメントや、不当解雇並びに就労妨害等全く理解できませんかネぇemoji

山下江弁護士は、世の役に立たぬ犯罪者の教育を教育目標に掲げる
リコール隠し電機 三菱電機 の社員の名刺の話は ここ をクリック emoji

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【2017/07/09 11:37 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
「鉄道車両メーカーの汽車会社と川崎重工の興亡」の話!
---転記はじめ---



******************************************
平岡熈  汽車会社の回顧 汽車会社と川重 長谷川勘一郎 汽車会社の鉄道車両   HOME

鉄道車両メーカーの汽車会社と川崎重工の興亡
(中川浩一 鉄道ピクトリアル No266 1972/5)

1 機関車国産化と汽車製造会社
2 ノックダウンメーカーとして誕生
3 日露戦争の勝利に貢献した汽車製造会社
4 汽車製造会社と川崎造船所
5 汽車会社の脱皮ついにならず

右の写真:汽車会社大阪工場構内におけるD51重連の走行試験 ネットより

 明治47年(1808)、鉄道院総裁後藤新平は工作課長島安次郎の起案した国産機関車採用の方針を承認した(注1)
 日露戦争の戦費調達、膨大な軍需物資の購入によって急増した対外債務は、日本経済の前途を圧迫する要因であった。
 かかる情勢の中で、機関車輸入のために、年額およそ400万円の正貨を支払い続けることは、国民経済的な視野にたてば、もとより好ましくないことである。
 しかし機関車製造に着手するためには、鋼板・鋼管をはじめ、輪心・タイヤなどの量産体制の確立が必要であった。
 その基盤は果たしてできているのであろうか。
 また、国鉄・主要私設鉄道会社の自営鉄道工場の中には、修繕工事の合間に機関車の製作を行なった実績を有するものがいくつか含まれではいたが、国有鉄道の機関車需要を完全にまかなうためには、専業の車両製造工場が必要であった。
 ところで、機関車製造の原材料の自給に関しては、軍工廠内の製鋼工場が稼動するほかには、官営製鉄所(現新日本製鉄八幡製鉄所)があるだけで、量的にも技術的にも不充分であった。
 高度の圧延加工を伴う半成品の場合には、輸入品に依存せざるを得なかったのである。
 これに対して、専業の車両製造工場については、明治29年(1886)に創設され、新製機関車第1号を台湾総督府鉄道に納入(明治34年)して以来、デッドコピー(編者注、再製)的段階をまだ抜けだしてはいないけれど、製作経験に関してならば、信頼性を高めていた汽車製造合資会社が存在していた。
 また、機関車製造技術については未知数ながら、造船技術に関しては定評のある川崎造船所が、不況対策樹立のために車両製造工業への進出を意図する情勢にあった(注2)
 かくして全面的な国産化には、なお問題はあるものの、鉄道院当局の意図は実現の可能性を蔵していたのである。
 あとは決断の問題であった。

(注1)日本国有鉄道「鉄道技術発達史」第4篇1(1958)p70、日本国有鉄道「国鉄の回順一先輩の体験談」(1957)p248
(注2)川崎造船所「川崎造船所40年史」(1936)p167


1 機関車国産化と汽車製造会社 top

 日露戦争後の国内経済は不況にみまわれていた。
 このことは、輸送需要にとってはマイナスの効果である。
 にもかかわらず、国有鉄道の保有する機関車は、急激に増加していた。
 鉄道国有化がその要因の一つであることもあったが、満洲における野戦鉄道で使用する目的で発注したB6(後の7170・7400・7500形)、F2形(後の8700形)などの大型(当時としての)機関車が大量に内地に送還されていたのである。
 しかし、買収鉄道から引継いだ機関車の中には、機関車運用の定着性や保修体制の維持のためには、デメリットでしかない存在が少なくなかった。
 性能がまちまちなうえ、一形式当たりの保有両数が少なく、部品の互換性にも欠けるからである。
 同一規格による機関車を量産して、雑形機関車を淘汰する必要は、不可欠の要件であった。
 また、観点をかえて将来の輸送需要を想定すると、日本の風土に適合したより大形の機関車を製造する必要も考えられたのである。
 かくして、工作課長島安次郎を柱とする鉄道院技術陣は、旅客用としては2C形過熱蒸気機関車を外国に注文し、飽和および過熱蒸気の1D形貨物用を川崎造船所、2B形旅客用を汽車製造合資会社に製造させて、機関車製造工業の育成をはかる方針を樹立することになった(注3)
 ここで、機関車製造を全面的に国産化しなかったのは、国内における製造能力のほかに、ドイツにおいて非常な効果を発揮したシュミット式過熱器の技術導入というもくろみもあったからである。
 事実、上記の方針に従ってドイツから輸入された8800形・8850形は、その後の大形機関車製造技術の進展に、非常な貢献をなしている(注4)
 だが、明治末年にいたって、機関車国産化の方針が確立し、車両製造工業の前途の見通しに関しては、当時の対外情勢も関係していた。
 実態は剣の刃渡りであったけれど、日露戦争における表面的な勝利は、日本帝国が第二流の植民帝国となることを列強に印象づけた。
 かかる国際的地位の向上は、関税自立権の回復を約束してもいたのである。
 明治38年(1806)に改正された関税定率法は、日英通商航海条約が明治44年に満期になるのに伴って、日本側に一層有利に改められる見通しであった。
 最恵国待遇条項の撤廃は、他国との間に存在した不平等な扱いも、自動消滅させるのである。
 明治44年(1811)4月4日、日米通商条約が発効した。
 前年来交渉してきた関税定率法改正と条約改正交渉の最初の具体的成果であった。
 かくして機関車輸入に伴う税率は、部分品なみの5%から20%相当の従量税に引き上げられ、機関車国産化の方針にとっては、保護関税としての役割を果たすことになった。
 輸入機関車の価格騰貴が、新興の車両製造工業に幸いするのは、自明の理であり、かかる情勢がやがておとずれるという自信が、鉄道院技術陣と産業資本家を勇気づけたというべきであろう、
 ところで、鉄道院当局は、先に示した方針を継承しつつ、明治45年度からは、
『主として機関車修繕を鉄道院工場の業務とし新装は悉く之を私設同工場(引用者注:川崎造船所と汽車製造会社)に委する方針を採り、この為増備新製の全数を両工場に注文する』
方針を確定した(注5)
 かくして、汽車製造合資会社は、国策会社としてその前途を保障された。
 また、安定受注体制の確立とやがておこる第1次世界大戦に伴う爆発的な輸送需要の増大に助けられつつ、
 『機関車工業として本邦独立の基礎を確立したり。
 以来……工作上の技術は益々進歩し、その施工の程度は外国一流工場に比して遜色なきに至る』
ことになったのである。

(注3)日本国有鉄道「国鉄の回顧」(1957)p748、所載の朝倉希一の談話による
(注4)日本国有鉄道「鉄道技術発達史」第4篇1(1958)p176-177
(注5)鉄道省「日本鉄道史」下篇(1871)p377、なおこの際に、鉄道院工場から新製業務をとりあげたのは”一つの工場で、新製と修繕と両方やっていると、どうしても新製の方に興味を持ちたがる”(国鉄の回顧)という習慣是正のためでもあった。

2 ノックダウンメーカーとして誕生 top

 明治34年(1801)8月、民間工場(鉄道会社の車両工場を除く)が製作した機関車の第一号が、汽車製造合資会社の手で完成した。
 納入先は台湾総督府鉄道部と予定されていた。
 前年の7月ごろから製造に着手し、1年あまりもかかってようやく完成したのである(注6)
 ところが、折角の製品も実は台湾にはとどかなかった。
 輸送を請負った大倉組の鶴彦丸が、五島沖で海難沈没の悲運に遭遇したからである(注7)
 不幸中の幸いともいうべきは、一号機と平行して製造してきた第二号が台湾に安着したことであろうか。
 汽車製造会社の機関車製造史の巻頭に位置するこれらの機関車の実態は、ダブス(DUBS)社製のA8形(後の500形)のデッドコピー(再製)であった。鉄道作業局新橋工場から借用した1B1形ラジアルタンク機関車の組立図をトレースする一方、材料・部分品をイギリスに発注し、到着を待って作業を進めたのである。


ミカシ形製作中の組立工場 昭和3 汽車会社提供

 こうして完成した機関車の中で、多くの部分品が輸入でまかなわれた。注水器・給油器・真空ブレーキ装置は完成品を使用し、ボイラーの蒸気ドーム・煙室管板・覗板・火室後板などの曲げ物も輸入に依存し、動輪も完成品であった。
 このように、機関車としての重要部分は、自らの手で製造したのではない。
 汽車製造合資会社の製品とはいうものの、その正体はいわゆるノックダウン(編者注:組み立て)であり、当時のわが国の後進性がこの一事にも表われている。
 ダブス社の技術者がみたならば、わが社の製品がなぜ台湾にあるのかといぶかるにちがいない(注8)
 そのありさまは、日本人の目からみれば、日産ブルーバードそのものと見まちがう自動車が、Made in TAIWAN の青島号汽車として、いまも台湾各地を走り廻っているのと同じである。
 部品セットを輸入し、これを完成品に組立てたうえ、適当なブランド(商標)を付して販売する方式が、汽車製造会社の機関車製造の当初の姿であった。
 台湾の青島号汽車の製造事情との相違点を求めるならば、青島号の場合には、メーカーである裕隆汽車製造公司には、日産自動車の資本が導入されているのに、汽車製造合資会社がダブス社とは、資本的には全く無関係なことである。
 ところで、第一号・第二号の決算製造費は、それぞれ19,220円であった。受注価格は22,200円であったから、荷造費(290円)を加えても2,690円の収益を得たことになる、
 北海道鉄道に納入した第三号・第四号の場合には、一両につき22,600円の受注価格に対して、製造費は13,320円であったという。
 これらの事実も、外国品の輸入を考えれば確かに”国家経済に寄与した”(注9)といえよう。
 同時期に国鉄が、Nasmyth Wilson社から購入したA8形(後の600形)の購入価格は24,225円であったという。
 しかし、かかる事実をもって、”当時の外国の搾取ぶりが思い半ばに過ぎる”(注10)と批評することには問題があるように思われる。
 当時の日英の労働者の賃銀水準を比べてみれば、雲泥の差があった。
 インド以下の低賃銀と評されたチープレーバーの雇用が、汽車会社製の機関車価格の引下げに役立っていた事実に、注意を払う必要がある。
 しかしながら、汽車製造が独自に労働者を酷使したというのではない。
 当時のわが国の生活水準の低さが、製造費のひき下げに成功した鍵であることを指摘したい。

(注6)台湾総督府に納入予定の第1号機を民間工場製作の第1号としたのは、長谷川勘一郎「国産第1号機関車が生まれたころ」鉄道No7(1953)、同「失った栄冠!一機関車製造を企てた株式会社鉄道車両製作所」鉄道No3(1954)によったものである。
 長谷川勘一郎は汽車製造会社2代社長の婿養子で、当時は大阪製作所技術部長の地位にあった。
 鉄道車両製作所が徳島鉄道に納入した1B形タンク機関車(5号)と汽車製造会社の第1号のどちらがいわゆる国産1号機であるかは、諭のわかれるところ。
(注7)鶴彦丸遭難の事実は、台湾総督府鉄道部「台湾鉄道史」下巻(1811)p18に詳しい。
 しかし船と運命を共にした機関車については”鉄道作業局より保管転換した機関車一両”とだけ記しているにすぎない。
(注8)台湾総督府鉄道が、明治年間に保有した1B1形機関車の中にはダブス社から納入されたものは、含まれていない。
(注9)市上一二「汽車会社車両製作回顧 上」鉄道ピクトリアルNo262(1977)p56
(注10)長谷川勘一郎「国産第1号機関車が生まれたころ」鉄道No7(1953)p37

3 日露戦争の勝利に貢献した汽車製造会社 top

 明治36年(1903)12月28日、『京釜鉄道速成の件』が緊急勅令として公布された。
 日本・ロシアの両国の外交交渉が難航をざわめ、開戦論が取沙汰される中にあって、韓国の軍事的支配を強行しようとするための布告である。
 ロシア太平洋艦隊が旅順に集結する情勢では、黄海の制海権確保は困難であった。
 そのため、韓国北部に大部隊を派遣するには、対馬海峡経由で釜山に上陸し、陸路北進するのが得策と判断され、輸送力確保のために軽便鉄道を急速に完成させようとしたのである。
 当時の韓国には、首都京城とその外港仁川の間に、日本資本の京仁鉄道(軌間1,435mm)が存在するだけであった。
 しかし、釜山-京城間は、京釜鉄道合同条約の取決めにしたがい、明治34年8月に着工した(注11)ものの、1,435mm軌間の鉄道で結ぶためには、多くの年月を心要とし、作戦の進展に対応できぬ心配があったので、簡易構造の767mm軌間として急速敷設が計られたのである。
 京釜鉄道速成に要すべき車両のうち、機関車はBald-win(合衆国)に発注されたが、客貨車は日本国内で製造する方針がとられることになった。
 かくして、汽車製造合資会社は、大阪本店・東京支店の両工場の全力を投入して、京釜鉄道速成用車両の製造に当たったのである。
 しかし、京釜鉄道速成用の資材・車両は、本来の目的には使用されなかった。


安奉線軽便鉄道(朝鮮と満州を結ぶ鉄道)の貨物列車
安奉線改築記念帳より

安奉線有蓋貨車(5トン) 安奉線改築記念帳より

 明治37年(1804)2月9日、日本艦隊は宣戦布告に先だって、仁川港でロシア軍艦2隻と交戦してこれを撃滅したほか、旅順軍港も襲撃、続いて封鎖作戦を強行して黄海の制海権を確保した。
 このような情勢の変化によって、京釜鉄道を767mm軌間で速成させる必要は消滅した。
 また同年5月以降、鴨緑江渡河作戦・遼東半島上陸作戦の成功に伴って、戦場は南満洲に移ることになった。
 南満洲の戦場において、軍事物資の輸送を実施するためには、占領した東清鉄道を1,067 mm 軌間に改組して、日本から搬入した車両を運転する方法が、明治37年7月以降早急に実施されたが、鴨緑江川口付近からの陸上輸送のためには、転用すべき既設鉄道が存在しないので、軽便鉄道敷設が計画されたのである。
 当初は、手押鉄道の予定であったこの軽便線は、8月以降、767mm軌間の蒸気鉄道に変更されることになった。
 先に記したように、情勢の変化に伴って、京釜鉄道速成用の資材が不要となったため、これを転用のうえ急速建設することに決定したのである(注12)
 だが、レールとその付属品以外に金属は使用せず、”純粋の土木工事”と評された(注13)安奉軽便線の線路を走る客貨車も、全くすさまじいシロモノであった。
 限られた予算と短い期間という条件の下で急造するのであるから、やむをえない両があろうが、”オモチャ汽車”のニックネームを頂戴したくらいである。
 単車の構造は常軌を逸したものではないが、簡単なボギー台車の上に橋渡しされた形で付けられた有ガイ・無ガイの貨車車体は、従来の鉄道車両の常識を破るものであった。
 客車は貨車を改装して作られたが、並等客車の場合などは、動く家畜小屋とでもいうべきモノスゴさである。
 なお確証があるわけではないが、これらの客車の原設計は、汽車製造合資会社の技術陣によるものではなく、すでに採用が決定し、一部の車両資材は輸入が終っていたドイツ陸軍制式の軍用軽便鉄道システムの中から、組立式貨車をとりだしてスケッチしたものと伝えられる。
 分解して収容可能な台車・台枠・置板などをたくみに組合せてボギーの有ガイ貨車・無ガイ貨車・傷病兵輸送車を速成する方法からヒントを得て、京釜鉄道速成用貨車が作られたものと筆者は判断している(注14)

(注11)統監府鉄道管理局「韓国鉄道経路案内」(1908)p7
(注12)南満洲鉄道株式会社「野戦鉄道記念誌」(1930)p5
(注13)寺島京一「安奉線軽便鉄道」鉄道ファン31(1964)p50に引用の工学博士田辺朔郎の言による。
(注14)軍用軽便組立式車両については「軍用軽便鉄道教範草案」(1903)が詳しい。


4 汽車製造会社と川崎造船所 top

 国産機関車積極採用の方針にもとづき、明治47年(1808)7月、汽車製造合資会社に鉄道院から発注されたのは、2B形飽和蒸気機関車としての6700形4両である。
 この機関車の当初計画は、2B2形で、欧米派遣の経験をもつ鉄道技師森彦三が、新橋工場在勤時代になしたといわれている(注15)
 6700形は、明治44年(1811)に16両が落成したが、汽車製造合資会社が製作したのは全両数の1/4にすぎず、3/4にあたる12両は創業まもない川崎造船所兵庫分工場に発注されていた。
 すでに70両あまりの製造実績を有する汽車製造合資会社を差しおいて、新興の川崎造船所が多くの注文を獲得したのは、次の条件によったものと考えられる。
 第一は、6700形の設計者は、川崎造船所兵庫分工場機関車設計主任太田吉松であった。
 国鉄神戸工場に勤務する秀れた現場の技術者であった彼は、汽車監督R. F. Trevithick から、勤勉で技術優秀の証明をうけ、かつ機関車設計の手ほどきを受けていた。
 そうして、川崎造船所が機関車製作を開始するに当たり、官を辞したのである(注16)
 太田吉松の在勤時代に神戸工場は、R. F. Trevithick設計になる機関車の製作経験を豊富に有していた。
 これに対して汽車製造会社の場合には、その製品はデッドコピーか部分的改良にとどまり、オリジナリティに乏しかったことが、川崎造船所に先をこされたといえるのではなかろうか。
 第二は、工場の作業能力と資本の問題である。
 兵庫分工場の創設に当たり、川崎造船所は兵庫東尻池運河沿岸に、76,768坪の用地を買収して車両工場を建設した。
 汽車製造合資会社も、創業に当たって約2万坪の用地を手当してはいたが、資本金は当初が64万円、大正元年(1817)に株式会社へ改組当時で75万円にすぎなかった。
 これに対して、川崎造船所は鉄道車両製作を計画すると同時に、400万円から1,000万円へ増資されている。
 増資に伴う資金のすべてが車両工場に投じられたわけではないが、資本力にものをいわせ、量産体制を確立したさまをうかがうことができよう。
 一方、汽車製造合資会社は、明治47年(1908)、同43年には無配当を余儀なくされたこともあった(注17)
 こうして、積極経営を実施することのできぬ情勢も、川崎造船所の後塵を拝する結果となったのであろう。
 6700形はその後6716~6730の15両が汽車製造会社に発注された。
 しかしこの間に川崎造船所も15両を受注したほか、同じく太田吉松設計の6750形6両、8550形17両、8600形(のちの8580形)17両も受注している。
 大正元年(1917)度以降、機関車の全面国産化の中で、川崎造船所は8600形を独占受注したほか、7B形過熱蒸気機関車6760形の発注も受けている。
 汽車製造株式会社の場合には、大正3年(1914)に至って8670形1C形過熱蒸気機関車の注文を受けたのである。
 しかし年度別にみた受注両数は、川崎造船所に比べて、常に少なかった。
 客貨車に比して付加価値の高い機関車の製作において遅れをとったことは、国有鉄道側がより需要の多い貨物列車用を川崎造船所にゆだねたことにも由来するが、8600形の場合にも”太田吉松氏が一部分ずつ設計しては国有鉄道に持参し、自分がそれを調査し修正を加えたものを持ち帰って、直ちに製造に着手する”(注18)という事情も介在して事態やむを得なかった。
 汽車製造合資会社の場合には、日本鉄道大宮工場から工藤兵次郎を迎え、設計掛長の職につけているが、彼の職場であった大宮工場には、太田吉松氏を育てたような積極性に欠けるところがあったのではないか。
 工藤は質実な技術者ではあったけれど、その名は、後進性からいまだ脱却しえない風土に適合すべく設計した、工藤式蒸気動車に残るのみである。

(注15)日本国有鉄道「国鉄の回顧」(1957)p248所載の朝倉希一の談話による。
(注16・18)朝倉希一「思出話」機関車No4(1950)p6
(注17)都崎雅之助「我国の鉄道車両工業」(1950)

5 汽車会社の脱皮ついにならず top

 大正4年(1913)の第1次世界大戦は、極東の島国にも重大な影響を及ぼした。
 軍需景気にわきたつ産業界の情勢は輸送需要の急増をもたらし、鉄道国有化によって全国的な鉄道網を掌握した国有鉄道は、車両増備の必要に追いまくられたのである。
 しかし、その入手は著しく困難となっていた。
 かかる事態に対して、汽車製造株式会社はどう対処したのであろうか。
 鉄道車両・鉄道用品・橋りょうなどの製作に専念してきた汽車製造株式会社は、大正4年以降、工作機械の生産を本格的に開始した。
 工作機械は構造が精密で所要鉄鋼材が比較的少なく、製造原価の大部分は設計費・工賃であって、鉄材不足対策に好都合との観点からであった(注19)


大阪組立工場内部 昭和11 汽車会社提供

 これに対して川崎造船所は、大正5年(1916)に資本金を倍額に増資し、鋼材自給の目的から葺合工場を建設した。
 今日の川崎製鉄株式会社の前身である。
 また、これと同時に、兵庫分工場内に製鉄所が設けられた(注20)。
 なるべく鉄鋼を使わず、技術的精度に力を入れる汽車製造株式会社と、資力に物言わせて、百年の計をたてる川崎造船所との間には、経営方計上で真に大きな相違があるわけである。
 もっとも川崎造船所の場合には、鉄道車両用の鋼材確保を第一義として、製鋼部門に進出したのではない。
 また汽車製造株式会社と川崎造船所の間には、資本力において大差があり、金融上での信用でも相違があった。
 前者が後者と同一の行動をとることは、むずかしかったといえる。
 だが総合メーカーヘの途を歩むべく、従前からも積極的な行動をとってきた立場と、車両製造専業の色彩を捨てきれない立場との間には、これ以後にもますます大きな差がついていく。
 汽車製造株式会社が、川崎重工業株式会社に吸収合併される遠因は、はるか以前の時点にあったと考えられるのである。
 ところで、大正元年(1817)以降、機関車国産化を実現させたとはいうものの、主要部分品は車輪・車軸・担バネ・圧力計・油ポンプ・注水器・過熱器など、その多くを輸入に頼っていたから、大戦と同時に輸入が途絶し、機関車製造業は多くの困難にみまわれることになった。
 とりわけ、輸入価格の関係から、ドイツ製品に依存する体制が明治来年以来でき上っていたために、影響は甚大であった(注21)
 背に腹はかえられず、国産化が強引に押し進められていったが、そのことは結果としては、鉄道車両の完全自給体制を実現することになった。
 かかる情勢中での、今日の大をなすもとを開いたのが住友金属工業である。
 また電気機械の輸入困難に対応して事業拡大の端緒を得だのは、日立製作所であった。
 住友金属工業の場合には、住友財閥の資本力がその背後にあったことはいなめない。
 しかし、銅山会社の小修理工場から出発した日立製作所の進展は、何を意味しているのであろうか。
 明治末のお墨付以来、国有鉄道からの安定需要に依存した鉄道車両メ-カーの名門汽車製造会社も、母屋の凋落を目前にした、時局の進展に適合しきれず、昭和47年に川崎重工に吸収合併されその75年の歴史を閉じた。

(注19)都崎雅之助「我国の鉄道車両工業」(1950)
(注20)川崎造船所「川崎造船所40年史」(1963)p45・46・48~51
(注21)朝倉希一「汽車」(1956)p223

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【エネルギー】石油産業の構造① -供給の歴史:石油企業と産油国の150年
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【エネルギー】石油産業の構造① ー供給の歴史:石油企業と産油国の150年ー 2016/01/28 体系的に学ぶ

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