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【2026/07/15 09:18 】 |
山下江弁護士には理解できない、犯罪者 佃和夫の犯罪の数々のお話!!
極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 は、広島県立障害者リハビリテーションセンターで凡そ2ヶ月間かけて、正規の検査を受けた結果、

高次機能障害者であると判明した、極悪犯罪企業 三菱重工 のHIP、CIP、食品加圧機械事業を立て直した恩人である私を不当解雇した

しかも、当時の上司であったヤマサキヒロキは、連日我が家に押しかけて、
我が家のリビングに座って退職強要を繰り返した

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の後輩である、山下江弁護士は、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の不当解雇並びに就労妨害が、極めて悪質な犯罪であるという事実も理解できないのでしょうかネemoji

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の後輩である、山下江弁護士は、相続が専門だから、パワハラスメントや、不当解雇並びに就労妨害等全く理解できませんかネぇemoji

山下江弁護士は、世の役に立たぬ犯罪者の教育を教育目標に掲げる
リコール隠し電機 三菱電機 の社員の名刺の話は ここ をクリック emoji

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【2017/07/09 11:37 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
「鉄道車両メーカーの汽車会社と川崎重工の興亡」の話!
---転記はじめ---



******************************************
平岡熈  汽車会社の回顧 汽車会社と川重 長谷川勘一郎 汽車会社の鉄道車両   HOME

鉄道車両メーカーの汽車会社と川崎重工の興亡
(中川浩一 鉄道ピクトリアル No266 1972/5)

1 機関車国産化と汽車製造会社
2 ノックダウンメーカーとして誕生
3 日露戦争の勝利に貢献した汽車製造会社
4 汽車製造会社と川崎造船所
5 汽車会社の脱皮ついにならず

右の写真:汽車会社大阪工場構内におけるD51重連の走行試験 ネットより

 明治47年(1808)、鉄道院総裁後藤新平は工作課長島安次郎の起案した国産機関車採用の方針を承認した(注1)
 日露戦争の戦費調達、膨大な軍需物資の購入によって急増した対外債務は、日本経済の前途を圧迫する要因であった。
 かかる情勢の中で、機関車輸入のために、年額およそ400万円の正貨を支払い続けることは、国民経済的な視野にたてば、もとより好ましくないことである。
 しかし機関車製造に着手するためには、鋼板・鋼管をはじめ、輪心・タイヤなどの量産体制の確立が必要であった。
 その基盤は果たしてできているのであろうか。
 また、国鉄・主要私設鉄道会社の自営鉄道工場の中には、修繕工事の合間に機関車の製作を行なった実績を有するものがいくつか含まれではいたが、国有鉄道の機関車需要を完全にまかなうためには、専業の車両製造工場が必要であった。
 ところで、機関車製造の原材料の自給に関しては、軍工廠内の製鋼工場が稼動するほかには、官営製鉄所(現新日本製鉄八幡製鉄所)があるだけで、量的にも技術的にも不充分であった。
 高度の圧延加工を伴う半成品の場合には、輸入品に依存せざるを得なかったのである。
 これに対して、専業の車両製造工場については、明治29年(1886)に創設され、新製機関車第1号を台湾総督府鉄道に納入(明治34年)して以来、デッドコピー(編者注、再製)的段階をまだ抜けだしてはいないけれど、製作経験に関してならば、信頼性を高めていた汽車製造合資会社が存在していた。
 また、機関車製造技術については未知数ながら、造船技術に関しては定評のある川崎造船所が、不況対策樹立のために車両製造工業への進出を意図する情勢にあった(注2)
 かくして全面的な国産化には、なお問題はあるものの、鉄道院当局の意図は実現の可能性を蔵していたのである。
 あとは決断の問題であった。

(注1)日本国有鉄道「鉄道技術発達史」第4篇1(1958)p70、日本国有鉄道「国鉄の回順一先輩の体験談」(1957)p248
(注2)川崎造船所「川崎造船所40年史」(1936)p167


1 機関車国産化と汽車製造会社 top

 日露戦争後の国内経済は不況にみまわれていた。
 このことは、輸送需要にとってはマイナスの効果である。
 にもかかわらず、国有鉄道の保有する機関車は、急激に増加していた。
 鉄道国有化がその要因の一つであることもあったが、満洲における野戦鉄道で使用する目的で発注したB6(後の7170・7400・7500形)、F2形(後の8700形)などの大型(当時としての)機関車が大量に内地に送還されていたのである。
 しかし、買収鉄道から引継いだ機関車の中には、機関車運用の定着性や保修体制の維持のためには、デメリットでしかない存在が少なくなかった。
 性能がまちまちなうえ、一形式当たりの保有両数が少なく、部品の互換性にも欠けるからである。
 同一規格による機関車を量産して、雑形機関車を淘汰する必要は、不可欠の要件であった。
 また、観点をかえて将来の輸送需要を想定すると、日本の風土に適合したより大形の機関車を製造する必要も考えられたのである。
 かくして、工作課長島安次郎を柱とする鉄道院技術陣は、旅客用としては2C形過熱蒸気機関車を外国に注文し、飽和および過熱蒸気の1D形貨物用を川崎造船所、2B形旅客用を汽車製造合資会社に製造させて、機関車製造工業の育成をはかる方針を樹立することになった(注3)
 ここで、機関車製造を全面的に国産化しなかったのは、国内における製造能力のほかに、ドイツにおいて非常な効果を発揮したシュミット式過熱器の技術導入というもくろみもあったからである。
 事実、上記の方針に従ってドイツから輸入された8800形・8850形は、その後の大形機関車製造技術の進展に、非常な貢献をなしている(注4)
 だが、明治末年にいたって、機関車国産化の方針が確立し、車両製造工業の前途の見通しに関しては、当時の対外情勢も関係していた。
 実態は剣の刃渡りであったけれど、日露戦争における表面的な勝利は、日本帝国が第二流の植民帝国となることを列強に印象づけた。
 かかる国際的地位の向上は、関税自立権の回復を約束してもいたのである。
 明治38年(1806)に改正された関税定率法は、日英通商航海条約が明治44年に満期になるのに伴って、日本側に一層有利に改められる見通しであった。
 最恵国待遇条項の撤廃は、他国との間に存在した不平等な扱いも、自動消滅させるのである。
 明治44年(1811)4月4日、日米通商条約が発効した。
 前年来交渉してきた関税定率法改正と条約改正交渉の最初の具体的成果であった。
 かくして機関車輸入に伴う税率は、部分品なみの5%から20%相当の従量税に引き上げられ、機関車国産化の方針にとっては、保護関税としての役割を果たすことになった。
 輸入機関車の価格騰貴が、新興の車両製造工業に幸いするのは、自明の理であり、かかる情勢がやがておとずれるという自信が、鉄道院技術陣と産業資本家を勇気づけたというべきであろう、
 ところで、鉄道院当局は、先に示した方針を継承しつつ、明治45年度からは、
『主として機関車修繕を鉄道院工場の業務とし新装は悉く之を私設同工場(引用者注:川崎造船所と汽車製造会社)に委する方針を採り、この為増備新製の全数を両工場に注文する』
方針を確定した(注5)
 かくして、汽車製造合資会社は、国策会社としてその前途を保障された。
 また、安定受注体制の確立とやがておこる第1次世界大戦に伴う爆発的な輸送需要の増大に助けられつつ、
 『機関車工業として本邦独立の基礎を確立したり。
 以来……工作上の技術は益々進歩し、その施工の程度は外国一流工場に比して遜色なきに至る』
ことになったのである。

(注3)日本国有鉄道「国鉄の回顧」(1957)p748、所載の朝倉希一の談話による
(注4)日本国有鉄道「鉄道技術発達史」第4篇1(1958)p176-177
(注5)鉄道省「日本鉄道史」下篇(1871)p377、なおこの際に、鉄道院工場から新製業務をとりあげたのは”一つの工場で、新製と修繕と両方やっていると、どうしても新製の方に興味を持ちたがる”(国鉄の回顧)という習慣是正のためでもあった。

2 ノックダウンメーカーとして誕生 top

 明治34年(1801)8月、民間工場(鉄道会社の車両工場を除く)が製作した機関車の第一号が、汽車製造合資会社の手で完成した。
 納入先は台湾総督府鉄道部と予定されていた。
 前年の7月ごろから製造に着手し、1年あまりもかかってようやく完成したのである(注6)
 ところが、折角の製品も実は台湾にはとどかなかった。
 輸送を請負った大倉組の鶴彦丸が、五島沖で海難沈没の悲運に遭遇したからである(注7)
 不幸中の幸いともいうべきは、一号機と平行して製造してきた第二号が台湾に安着したことであろうか。
 汽車製造会社の機関車製造史の巻頭に位置するこれらの機関車の実態は、ダブス(DUBS)社製のA8形(後の500形)のデッドコピー(再製)であった。鉄道作業局新橋工場から借用した1B1形ラジアルタンク機関車の組立図をトレースする一方、材料・部分品をイギリスに発注し、到着を待って作業を進めたのである。


ミカシ形製作中の組立工場 昭和3 汽車会社提供

 こうして完成した機関車の中で、多くの部分品が輸入でまかなわれた。注水器・給油器・真空ブレーキ装置は完成品を使用し、ボイラーの蒸気ドーム・煙室管板・覗板・火室後板などの曲げ物も輸入に依存し、動輪も完成品であった。
 このように、機関車としての重要部分は、自らの手で製造したのではない。
 汽車製造合資会社の製品とはいうものの、その正体はいわゆるノックダウン(編者注:組み立て)であり、当時のわが国の後進性がこの一事にも表われている。
 ダブス社の技術者がみたならば、わが社の製品がなぜ台湾にあるのかといぶかるにちがいない(注8)
 そのありさまは、日本人の目からみれば、日産ブルーバードそのものと見まちがう自動車が、Made in TAIWAN の青島号汽車として、いまも台湾各地を走り廻っているのと同じである。
 部品セットを輸入し、これを完成品に組立てたうえ、適当なブランド(商標)を付して販売する方式が、汽車製造会社の機関車製造の当初の姿であった。
 台湾の青島号汽車の製造事情との相違点を求めるならば、青島号の場合には、メーカーである裕隆汽車製造公司には、日産自動車の資本が導入されているのに、汽車製造合資会社がダブス社とは、資本的には全く無関係なことである。
 ところで、第一号・第二号の決算製造費は、それぞれ19,220円であった。受注価格は22,200円であったから、荷造費(290円)を加えても2,690円の収益を得たことになる、
 北海道鉄道に納入した第三号・第四号の場合には、一両につき22,600円の受注価格に対して、製造費は13,320円であったという。
 これらの事実も、外国品の輸入を考えれば確かに”国家経済に寄与した”(注9)といえよう。
 同時期に国鉄が、Nasmyth Wilson社から購入したA8形(後の600形)の購入価格は24,225円であったという。
 しかし、かかる事実をもって、”当時の外国の搾取ぶりが思い半ばに過ぎる”(注10)と批評することには問題があるように思われる。
 当時の日英の労働者の賃銀水準を比べてみれば、雲泥の差があった。
 インド以下の低賃銀と評されたチープレーバーの雇用が、汽車会社製の機関車価格の引下げに役立っていた事実に、注意を払う必要がある。
 しかしながら、汽車製造が独自に労働者を酷使したというのではない。
 当時のわが国の生活水準の低さが、製造費のひき下げに成功した鍵であることを指摘したい。

(注6)台湾総督府に納入予定の第1号機を民間工場製作の第1号としたのは、長谷川勘一郎「国産第1号機関車が生まれたころ」鉄道No7(1953)、同「失った栄冠!一機関車製造を企てた株式会社鉄道車両製作所」鉄道No3(1954)によったものである。
 長谷川勘一郎は汽車製造会社2代社長の婿養子で、当時は大阪製作所技術部長の地位にあった。
 鉄道車両製作所が徳島鉄道に納入した1B形タンク機関車(5号)と汽車製造会社の第1号のどちらがいわゆる国産1号機であるかは、諭のわかれるところ。
(注7)鶴彦丸遭難の事実は、台湾総督府鉄道部「台湾鉄道史」下巻(1811)p18に詳しい。
 しかし船と運命を共にした機関車については”鉄道作業局より保管転換した機関車一両”とだけ記しているにすぎない。
(注8)台湾総督府鉄道が、明治年間に保有した1B1形機関車の中にはダブス社から納入されたものは、含まれていない。
(注9)市上一二「汽車会社車両製作回顧 上」鉄道ピクトリアルNo262(1977)p56
(注10)長谷川勘一郎「国産第1号機関車が生まれたころ」鉄道No7(1953)p37

3 日露戦争の勝利に貢献した汽車製造会社 top

 明治36年(1903)12月28日、『京釜鉄道速成の件』が緊急勅令として公布された。
 日本・ロシアの両国の外交交渉が難航をざわめ、開戦論が取沙汰される中にあって、韓国の軍事的支配を強行しようとするための布告である。
 ロシア太平洋艦隊が旅順に集結する情勢では、黄海の制海権確保は困難であった。
 そのため、韓国北部に大部隊を派遣するには、対馬海峡経由で釜山に上陸し、陸路北進するのが得策と判断され、輸送力確保のために軽便鉄道を急速に完成させようとしたのである。
 当時の韓国には、首都京城とその外港仁川の間に、日本資本の京仁鉄道(軌間1,435mm)が存在するだけであった。
 しかし、釜山-京城間は、京釜鉄道合同条約の取決めにしたがい、明治34年8月に着工した(注11)ものの、1,435mm軌間の鉄道で結ぶためには、多くの年月を心要とし、作戦の進展に対応できぬ心配があったので、簡易構造の767mm軌間として急速敷設が計られたのである。
 京釜鉄道速成に要すべき車両のうち、機関車はBald-win(合衆国)に発注されたが、客貨車は日本国内で製造する方針がとられることになった。
 かくして、汽車製造合資会社は、大阪本店・東京支店の両工場の全力を投入して、京釜鉄道速成用車両の製造に当たったのである。
 しかし、京釜鉄道速成用の資材・車両は、本来の目的には使用されなかった。


安奉線軽便鉄道(朝鮮と満州を結ぶ鉄道)の貨物列車
安奉線改築記念帳より

安奉線有蓋貨車(5トン) 安奉線改築記念帳より

 明治37年(1804)2月9日、日本艦隊は宣戦布告に先だって、仁川港でロシア軍艦2隻と交戦してこれを撃滅したほか、旅順軍港も襲撃、続いて封鎖作戦を強行して黄海の制海権を確保した。
 このような情勢の変化によって、京釜鉄道を767mm軌間で速成させる必要は消滅した。
 また同年5月以降、鴨緑江渡河作戦・遼東半島上陸作戦の成功に伴って、戦場は南満洲に移ることになった。
 南満洲の戦場において、軍事物資の輸送を実施するためには、占領した東清鉄道を1,067 mm 軌間に改組して、日本から搬入した車両を運転する方法が、明治37年7月以降早急に実施されたが、鴨緑江川口付近からの陸上輸送のためには、転用すべき既設鉄道が存在しないので、軽便鉄道敷設が計画されたのである。
 当初は、手押鉄道の予定であったこの軽便線は、8月以降、767mm軌間の蒸気鉄道に変更されることになった。
 先に記したように、情勢の変化に伴って、京釜鉄道速成用の資材が不要となったため、これを転用のうえ急速建設することに決定したのである(注12)
 だが、レールとその付属品以外に金属は使用せず、”純粋の土木工事”と評された(注13)安奉軽便線の線路を走る客貨車も、全くすさまじいシロモノであった。
 限られた予算と短い期間という条件の下で急造するのであるから、やむをえない両があろうが、”オモチャ汽車”のニックネームを頂戴したくらいである。
 単車の構造は常軌を逸したものではないが、簡単なボギー台車の上に橋渡しされた形で付けられた有ガイ・無ガイの貨車車体は、従来の鉄道車両の常識を破るものであった。
 客車は貨車を改装して作られたが、並等客車の場合などは、動く家畜小屋とでもいうべきモノスゴさである。
 なお確証があるわけではないが、これらの客車の原設計は、汽車製造合資会社の技術陣によるものではなく、すでに採用が決定し、一部の車両資材は輸入が終っていたドイツ陸軍制式の軍用軽便鉄道システムの中から、組立式貨車をとりだしてスケッチしたものと伝えられる。
 分解して収容可能な台車・台枠・置板などをたくみに組合せてボギーの有ガイ貨車・無ガイ貨車・傷病兵輸送車を速成する方法からヒントを得て、京釜鉄道速成用貨車が作られたものと筆者は判断している(注14)

(注11)統監府鉄道管理局「韓国鉄道経路案内」(1908)p7
(注12)南満洲鉄道株式会社「野戦鉄道記念誌」(1930)p5
(注13)寺島京一「安奉線軽便鉄道」鉄道ファン31(1964)p50に引用の工学博士田辺朔郎の言による。
(注14)軍用軽便組立式車両については「軍用軽便鉄道教範草案」(1903)が詳しい。


4 汽車製造会社と川崎造船所 top

 国産機関車積極採用の方針にもとづき、明治47年(1808)7月、汽車製造合資会社に鉄道院から発注されたのは、2B形飽和蒸気機関車としての6700形4両である。
 この機関車の当初計画は、2B2形で、欧米派遣の経験をもつ鉄道技師森彦三が、新橋工場在勤時代になしたといわれている(注15)
 6700形は、明治44年(1811)に16両が落成したが、汽車製造合資会社が製作したのは全両数の1/4にすぎず、3/4にあたる12両は創業まもない川崎造船所兵庫分工場に発注されていた。
 すでに70両あまりの製造実績を有する汽車製造合資会社を差しおいて、新興の川崎造船所が多くの注文を獲得したのは、次の条件によったものと考えられる。
 第一は、6700形の設計者は、川崎造船所兵庫分工場機関車設計主任太田吉松であった。
 国鉄神戸工場に勤務する秀れた現場の技術者であった彼は、汽車監督R. F. Trevithick から、勤勉で技術優秀の証明をうけ、かつ機関車設計の手ほどきを受けていた。
 そうして、川崎造船所が機関車製作を開始するに当たり、官を辞したのである(注16)
 太田吉松の在勤時代に神戸工場は、R. F. Trevithick設計になる機関車の製作経験を豊富に有していた。
 これに対して汽車製造会社の場合には、その製品はデッドコピーか部分的改良にとどまり、オリジナリティに乏しかったことが、川崎造船所に先をこされたといえるのではなかろうか。
 第二は、工場の作業能力と資本の問題である。
 兵庫分工場の創設に当たり、川崎造船所は兵庫東尻池運河沿岸に、76,768坪の用地を買収して車両工場を建設した。
 汽車製造合資会社も、創業に当たって約2万坪の用地を手当してはいたが、資本金は当初が64万円、大正元年(1817)に株式会社へ改組当時で75万円にすぎなかった。
 これに対して、川崎造船所は鉄道車両製作を計画すると同時に、400万円から1,000万円へ増資されている。
 増資に伴う資金のすべてが車両工場に投じられたわけではないが、資本力にものをいわせ、量産体制を確立したさまをうかがうことができよう。
 一方、汽車製造合資会社は、明治47年(1908)、同43年には無配当を余儀なくされたこともあった(注17)
 こうして、積極経営を実施することのできぬ情勢も、川崎造船所の後塵を拝する結果となったのであろう。
 6700形はその後6716~6730の15両が汽車製造会社に発注された。
 しかしこの間に川崎造船所も15両を受注したほか、同じく太田吉松設計の6750形6両、8550形17両、8600形(のちの8580形)17両も受注している。
 大正元年(1917)度以降、機関車の全面国産化の中で、川崎造船所は8600形を独占受注したほか、7B形過熱蒸気機関車6760形の発注も受けている。
 汽車製造株式会社の場合には、大正3年(1914)に至って8670形1C形過熱蒸気機関車の注文を受けたのである。
 しかし年度別にみた受注両数は、川崎造船所に比べて、常に少なかった。
 客貨車に比して付加価値の高い機関車の製作において遅れをとったことは、国有鉄道側がより需要の多い貨物列車用を川崎造船所にゆだねたことにも由来するが、8600形の場合にも”太田吉松氏が一部分ずつ設計しては国有鉄道に持参し、自分がそれを調査し修正を加えたものを持ち帰って、直ちに製造に着手する”(注18)という事情も介在して事態やむを得なかった。
 汽車製造合資会社の場合には、日本鉄道大宮工場から工藤兵次郎を迎え、設計掛長の職につけているが、彼の職場であった大宮工場には、太田吉松氏を育てたような積極性に欠けるところがあったのではないか。
 工藤は質実な技術者ではあったけれど、その名は、後進性からいまだ脱却しえない風土に適合すべく設計した、工藤式蒸気動車に残るのみである。

(注15)日本国有鉄道「国鉄の回顧」(1957)p248所載の朝倉希一の談話による。
(注16・18)朝倉希一「思出話」機関車No4(1950)p6
(注17)都崎雅之助「我国の鉄道車両工業」(1950)

5 汽車会社の脱皮ついにならず top

 大正4年(1913)の第1次世界大戦は、極東の島国にも重大な影響を及ぼした。
 軍需景気にわきたつ産業界の情勢は輸送需要の急増をもたらし、鉄道国有化によって全国的な鉄道網を掌握した国有鉄道は、車両増備の必要に追いまくられたのである。
 しかし、その入手は著しく困難となっていた。
 かかる事態に対して、汽車製造株式会社はどう対処したのであろうか。
 鉄道車両・鉄道用品・橋りょうなどの製作に専念してきた汽車製造株式会社は、大正4年以降、工作機械の生産を本格的に開始した。
 工作機械は構造が精密で所要鉄鋼材が比較的少なく、製造原価の大部分は設計費・工賃であって、鉄材不足対策に好都合との観点からであった(注19)


大阪組立工場内部 昭和11 汽車会社提供

 これに対して川崎造船所は、大正5年(1916)に資本金を倍額に増資し、鋼材自給の目的から葺合工場を建設した。
 今日の川崎製鉄株式会社の前身である。
 また、これと同時に、兵庫分工場内に製鉄所が設けられた(注20)。
 なるべく鉄鋼を使わず、技術的精度に力を入れる汽車製造株式会社と、資力に物言わせて、百年の計をたてる川崎造船所との間には、経営方計上で真に大きな相違があるわけである。
 もっとも川崎造船所の場合には、鉄道車両用の鋼材確保を第一義として、製鋼部門に進出したのではない。
 また汽車製造株式会社と川崎造船所の間には、資本力において大差があり、金融上での信用でも相違があった。
 前者が後者と同一の行動をとることは、むずかしかったといえる。
 だが総合メーカーヘの途を歩むべく、従前からも積極的な行動をとってきた立場と、車両製造専業の色彩を捨てきれない立場との間には、これ以後にもますます大きな差がついていく。
 汽車製造株式会社が、川崎重工業株式会社に吸収合併される遠因は、はるか以前の時点にあったと考えられるのである。
 ところで、大正元年(1817)以降、機関車国産化を実現させたとはいうものの、主要部分品は車輪・車軸・担バネ・圧力計・油ポンプ・注水器・過熱器など、その多くを輸入に頼っていたから、大戦と同時に輸入が途絶し、機関車製造業は多くの困難にみまわれることになった。
 とりわけ、輸入価格の関係から、ドイツ製品に依存する体制が明治来年以来でき上っていたために、影響は甚大であった(注21)
 背に腹はかえられず、国産化が強引に押し進められていったが、そのことは結果としては、鉄道車両の完全自給体制を実現することになった。
 かかる情勢中での、今日の大をなすもとを開いたのが住友金属工業である。
 また電気機械の輸入困難に対応して事業拡大の端緒を得だのは、日立製作所であった。
 住友金属工業の場合には、住友財閥の資本力がその背後にあったことはいなめない。
 しかし、銅山会社の小修理工場から出発した日立製作所の進展は、何を意味しているのであろうか。
 明治末のお墨付以来、国有鉄道からの安定需要に依存した鉄道車両メ-カーの名門汽車製造会社も、母屋の凋落を目前にした、時局の進展に適合しきれず、昭和47年に川崎重工に吸収合併されその75年の歴史を閉じた。

(注19)都崎雅之助「我国の鉄道車両工業」(1950)
(注20)川崎造船所「川崎造船所40年史」(1963)p45・46・48~51
(注21)朝倉希一「汽車」(1956)p223

top
******************************************



---転記終わり---
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【2017/07/08 22:39 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
「スタードラフト会議に登場した第二の歌マネ女王のこと!」から始まるお話!
スタードラフト会議ここ をクリック emoji)と言う番組がありました

スタードラフト会議は日本テレビ系列で、
2011年4月12日から2013年3月5日まで
放送されたバラエティ番組ですが、

このスタードラフト会議に彗星の如く登場した、
歌マネ女王が、荒牧陽子 さんですemoji

スタードラフト会議では、
荒牧陽子 さんに続いて、
第二の歌マネ女王が登場しましたことを覚えている人はいますかemoji

それが、古屋ひろこさん ですemoji
でも、古屋ひろこさん は、現役のOLなので、
その後、テレビ出演を控えていた為、荒牧陽子さん程有名にはなりませんでしたemoji

ネットで調べても、
荒牧陽子 さんの動画は沢山ヒットするのですが、
名前がヒットすることも稀ですし、
古屋ひろこさんの動画はほとんど見つかりません
古屋ひろこさんの動画を見つけることが出来ればそれは、奇跡と、言えるでしょうネ

また、
荒牧陽子さんも、色々なことがあったみたいで、
芸能界から干されてしまったみたいですネemoji


ブラック企業である、極悪犯罪企業 三菱重工 も、天罰を受けて、

二兆円近い、莫大な損害賠償金を請求される事態に及び、

何時倒産してもオカシク無い状況に陥りました
   倒産秒読みの東芝よりも、倒産の危機にある極悪犯罪企業 三菱重工の事!ここ をクリック emoji

まさに
天網恢恢疎にして漏らさず
誰も、天罰から逃れることは出来ませんemoji

トランプジョーカー も、

新興国アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)の大統領になったことで、

ルンルン気分で、大統領令を乱発して

世界中からブーイングを浴びせられただけでなく、

シェールオイル 、シェールガス を産出して、大気中に二酸化炭素をバラまき続けておきながら、「パリ協定から離脱する。」
とほざいたemoji

トランプジョーカー を大統領に選出した、

アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)だけには、

「大気中の二酸化炭素の量を削減すると言う私の大発明に拠り生産する二酸化炭素の排出権を利用させない。」

と、私に通告されたことで、

アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)の役人どもからキツク叱られたのでしょうかネ

或は、

私のブログで、

アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)のトランプジョーカー は、

クリスマスキャロル のスクルージ と同様に、守銭奴 であり、ジコチュー の、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)の象徴となったことから、
娘のイバンカさんからも見放されてみたいですネ

この様に、

トランプジョーカー は、

クリスマスキャロル の スクルージ の如く、

誰からも嫌われる存在に落ちぶれた

そして、 

トランプジョーカー が、

死んでも、悲しむものなど何処にもおらず、みんな喜び、

人々は、トランプジョーカー の死体から服をはぎ取り、

トランプジョーカー の家(トランプ・タワー)から様々な物を盗み出します。

クリスマスの夜に一人ひっそり死んでいったトランプジョーカー の墓石は、誰も顧みることなど無い

この様に、クリスマスキャロル の三人の精霊が、スクルージ に見せた過去、現在そして未来と同じことが、

守銭奴であり、ジコチューの、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)のトランプジョーカー に起きるのです

でも、守銭奴であり、ジコチューの、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)のトランプジョーカー は、

クリスマスキャロル の話など聞いた事も無いので、

パリ協定から離脱した上、

シェールオイル 、シェールガス に拠り、金儲けを続けるだけでなく、

大気中に二酸化炭素をバラまき続ける、
「産油国、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)に有利な条約を新たに結ぶ。」
と、ほざくemoji

私のブログで指摘されて、

子供の頃に聞いた、クリスマスキャロル の話を思い出した、

アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)のホワイトハウスの職員どもから、

反省を促されても聞く耳を持たない、トランプジョーカー は、

娘のイバンカさんからも見捨てられてしまいました

本当に、
アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)のトランプジョーカー は、

三人の妖精が現れる前の、クリスマスキャロル のスクルージ と同様に、皆から嫌われて、

トランプジョーカー が死んだと聞くと、

アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)の人々は、歓喜の声をあげて、

トランプタワーに押し寄せて、

トランプタワー内の品々を盗み出すが、

誰も、トランプタワー内の品々を盗み出すことを咎めず、

クルスマスの夜に死んだ、トランプジョーカー の服までもはぎ取っていく


クルスマスの夜に死んだ、トランプジョーカー の墓の場所も誰も知らず、

クルスマスの夜に死んだ、トランプジョーカー の墓は、朽ち果ててしまう

だが、日本では、
極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 が、

極悪犯罪企業 三菱重工 の株主総会で、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 を刑事告発することを求める決議が採択されたことから、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 は、裁判に拠り、有罪判決を受けて、

刑務所にブチ込まれ、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 が、刑務所にブチ込まれると、

三日三晩、悶え苦しみ抜いた後、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 は、地獄に堕ちたemoji

これに拠り、

無事、私の大発明の特許が出願されて、

私の大発明の特許が認められた後、

私は、日本に納税義務がある人々と、

「私の大発明に基づき生産した二酸化炭素排出権の売却益を正しく納税する。」と言う契約を結んだ人と、私の大発明のロイヤルティに支払いを免除する。と言う契約を結ぶ。

この結果、日本に納税義務を有する多くの人々が、私と契約を結び、

私の大発明を利用して、大気中の二酸化炭素を削減し、二酸化炭素排出権を生産する

こうして、日本国内で生産された二酸化炭素排出権は、

二酸化炭素排出権取引市場を通して、産油国に売却され、

産油国は、生産する石油に、私の大発明に基づき生産した二酸化炭素排出権を抱き合わせて生産する石油を売却することで、パリ協定を順守することが出来る

だが、「パリ協定からの離脱」を、公表した、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、

私の大発明を利用して、大気中の二酸化炭素を削減し、二酸化炭素排出権を生産する、日本国内で生産された二酸化炭素排出権を、利用できず、

世界中から蔑視されながら、世界から最も蔑みを受ける国に落ちぶれる

そして、パリ協定から離脱した、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)は、

世界史から忘れ去られ、誰も、アンフェア-・スピリット・オーソリティー(USA)の名前を憶えていない

ところで、世界第一位の産油国である、ロシアは、間一髪で、私の通告に従い、樺太と千島列島の全てを、日本に返還することで、私の許しを得ることが出来、

私の大発明を利用して、大気中の二酸化炭素を削減し、二酸化炭素排出権を生産する、日本国内で生産された二酸化炭素排出権を適正価格で購入することを許され、

パリ協定に留まることが出来た

勿論、世界第二位の産油国である、サウジアラビア王国は、

私の大発明を利用して、大気中の二酸化炭素を削減し、二酸化炭素排出権を生産する、日本国内で生産された二酸化炭素排出権を適正価格で購入することで、

パリ協定に留まり、繁栄し続けている



だって、縄文時代以降、電気やガスが普及する昭和三十年代まで、五千年間、或は六千年間もの間、人類は二酸化炭素を出し続けてきたにも拘らず、今だに地球は灼熱地獄に成り果てておらず、極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 は、ノコノコと、馬鹿とブスこそ東大に行け!(ここ をクリック emoji)の東大 に出向き、出鱈目な講演を行う状況にあるemojiemojiemoji

私の大発明が存在すると言う事実が嘘であるならば、

地球は既に灼熱地獄に成り果てていて当然の状況であり、

誰も、幼稚園児並みの知能しか持たない、極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の出鱈目な講演に耳を貸す訳が無いでしょ

でも、未だに、地球は灼熱地獄には成り果ててはいないからこそ、

馬鹿とブスこそ東大に行け!(ここ をクリック emoji)の東大 の馬鹿教授も、極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 に、出鱈目な講演会を開くことを許し、

極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 の了解を得た上で、

馬鹿とブスこそ東大に行け!(ここ をクリック emoji)の東大 の馬鹿教授も、極悪犯罪企業 三菱重工 の犯罪者 佃和夫 に、出鱈目な講演会の詳細を、ネット上で公表し、

馬鹿とブスこそ東大に行け!(ここ をクリック emoji)の東大 の馬鹿教授の頭は、モノマネぬいぐるみ並みであると言う事実を世界中に曝した


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【2017/07/08 11:43 】 | いいもの見つけた | 有り難いご意見(0)
【エネルギー】石油産業の構造① -供給の歴史:石油企業と産油国の150年
---転記始め---

【エネルギー】石油産業の構造① ー供給の歴史:石油企業と産油国の150年ー 2016/01/28 体系的に学ぶ

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---転記終わり---
   ・転記元は「サステナビリティニュースメディア」(ここ をクリック emoji

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【2017/07/08 11:37 】 | みんなが知らないこと | 有り難いご意見(0)
7割の老人が同じことで公開しているが、犯罪者 佃和夫は公開しないよネ!

人生で後悔していること、、、7割の老人が同じ回答結果に!後悔しないためには!?【驚愕】ここ をクリック emoji

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【2017/07/08 11:19 】 | いいもの見つけた | 有り難いご意見(0)
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