この言葉に、マッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。
出典日本の世界一
マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。今度はまるで一臣下のように掛けて昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとった。
出典昭和天皇を心から尊敬したマッカーサー|新時代のキリスト教
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。わさわざ予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。これは最大の好意の表れだった。
出典昭和天皇とマッカーサー会見の時
この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
出典ダグラス・マッカーサー - Wikipedia
マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、この後合計11回に渡って会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治の為に絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは自ら天皇助命の先頭に立った。
また当時、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対してアメリカ本国に何度も掛け合い食糧物資を支援させることに成功し日本の危機を救っている。
出典「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」小麦キャンペーン始まる—学校給食の農村普及事業 - 正しい食事を考える会
1951年、4月16日、マッカーサーは日本を離れることになった。日本を占領するため来日してから6年後のことだった。そして1964年、マッカーサーは84歳でこの世を去る。
後に戦争について語ることがあった昭和天皇だがマッカーサーとの会談のみ「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と生涯語ることはなかった。
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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
---転記終わり--- ・転記元「NAVER まとめ」(ここ をクリック )
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