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昔人の物語(36) 一休宗純『狂雲集』は読んではいけません(転記記事)

---転記始め---

昔人の物語(36) 一休宗純『狂雲集』は読んではいけません

昔人の物語 一休宗純『狂雲集』は読んではいけません

(1)とりあえず

 一休宗純(1394〜1481年)は、室町時代の臨済宗大徳寺の僧である。

 日本の禅宗は、鎌倉時代に、栄西が臨済宗、道元が曹洞宗をもたらした。江戸時代に隠元が黄檗宗を伝えた。曹洞宗は地方豪族や一般庶民に広がったのに対して、臨済宗は鎌倉・室町の武家政権に支持・保護され、五山十刹の制度が制定された。五山十刹の制度とは、寺院の格付で、最上位が五山、次が十刹、その下が諸山・林下となる。時の権力者の意向でランクに変更があった。一休の頃の大徳寺は五山に入っておらず、十刹のランクの第9番目であった。つまり、大徳寺は、下位ランクにあった。

 室町時代にあっては、漢文学を中心に水墨画、能、建築、庭園、生け花、茶の湯などの「五山文化」が栄えた。一休の『狂雲集』は漢詩集(ほとんど七言絶句)である。したがって、当時の漢文学の教養がないと、面白みが理解できないことが多い。

 ということは、漢文学の深い教養があると、『狂雲集』の面白みがわかるということである。しかも、思わずニタニタとスケベ顔になる面白みである。『狂雲集』の全作品が色物ではないが、全編を通じて色物がにじんでいることは確かで、後半になると、色物なんておとなしい表現ではなく、ずばり、ポルノ漢詩と言って憚らないものが数多くある。

 したがって、臨済宗大徳寺派では、大徳寺再建の大功労者である一休の『狂雲集』を読むことは禁止されていた。それどころか、『狂雲集』の存在すら口に出してはいけないという雰囲気だった。そうなると、逆に、こっそりと読みたくなるものである。

 読むと、何と申しましょうか、一種のカルチャー・ショックを覚える。名僧・高僧の誉れ高い一休宗純が、実は、エロ一休だったのか、スケベ坊主だったのか……。

 このギャップを埋めるために、次のような解説がなされる。

 一休と同時代の人々は、常識を超越した一休の行動と作品に、何かしら畏敬の感情を抱いていたのであろう。

 あるいは、

 一休の型破りの「風狂」は、人間の根源的な有り様を追及し、人間の原点を問うものであった。

 一休の真の姿は、戒律を木端微塵に破る「破戒僧」である。肉を食べ、酒を飲み、女を抱く。それは一休が到達した「悟り」の姿である。

 あるいは、

 一休は庶民の中に生き、形にとらわれず、あるがままに生きたのである。

 とかなんとか解説して、やっぱり、一休さんは大したものだ、と結論づける。

(2)一休の生涯

➀御落胤かも

 後小松天皇は北朝第6代天皇(在位1382〜1392年)であったが、1392年に南北朝合一によって、第100代天皇(在位1392〜1412年)となった。

 一休は、後小松天皇の御落胤、母は南朝遺臣の女と言われている。骨でも残っていればDNA鑑定が可能かも知れないが、真相は不明である。でも、当時の人々は、御落胤の噂を承知していた。

 真相は不明だが、南朝遺臣の女が妊娠したとなると、せっかく南北朝合一で北朝優位が確立したのに、南朝伸長に繋がるかもしれないということで、母は後宮を追われ、嵯峨野の民家で一休を生む。

②5歳で出家、そして悩む

 母は5歳の一休を臨済宗の安国寺に入れて出家させる。安国寺は五山の下の「十刹」の寺である。

 足利幕府は臨済宗を五山十刹の制度で手厚く保護・管理していた。つまり、世俗権力が支配していたのである。しかも、莫大な利益をもたらす中国貿易には中国語・中国文化のスペシャリスト(五山文化の担い手)である臨済宗の僧侶が通訳兼コンサルタントとして深く関わっていた。「世俗権力プラスお金」となれば、必然的に、臨済宗内部は金・金ピカ・豪華・華美が蔓延し、金によって地位と名誉が決まるという堕落状態になる。

 青年修行僧一休は、すでに漢詩の分野で天才との評価があった。天才は臨済宗の堕落にも敏感である。はたして臨済宗の修行の先に悟りはあるか?

③謙翁宗為(けんおうそうい)との出会い、そして自殺

迷いの中、ボロ衣・ボロ寺の貧窮にあってもひたすら仏道に邁進している謙翁宗為(?〜1415年)と出会う。一休は謙翁宗為を生涯の師と決め、師と同じく貧窮に身を置いて修行する。20歳の時、師は「私の法財は全部あたえた」と言って、「宗純」という名を贈った。決意も新たに仏道修行に邁進したが、翌年、謙翁宗為は亡くなってしまう。葬儀をする金もなく、なんとか葬儀らしきことをして茫然自失でふらふら歩く。そして、瀬田川(淀川の上流)へ身を投げようとした。

④華叟宗曇(かそうそうどん)との出会い、そしてカラスの悟り

 謙翁宗為の死から1年、一休は大徳寺の高僧、華叟宗曇(?〜1428年)と出会う。叟宗曇も極貧の僧であった。1420年、27歳の時、琵琶湖の岸で座禅を組んでいた。辺りは真っ暗である。一羽のカラスがカァと鳴いた。その瞬間、一休は悟りを開く。

 何のこっちゃ? 一応、説明しておきます。

 暗闇の中、カラスは黒いので、いるのか、いないのか、わからない。しかし、カァの鳴き声で、目には見えないが間違いなくカラスは存在していた。仏、仏性は目に見えない。あるのか、ないのか、わからない。しかし、間違いなく仏、仏性は存在する。どこに存在しているのか。自分の心の中に存在している。自分の心のままに生きる、すなわち仏、仏性のまま生きる……こんな程度の説明でご勘弁を。

⑤風狂の破戒僧が行く

 大徳寺は五山文化から距離を置いている在野の坐禅中心の臨済宗寺院であるが、それでも、法要では僧侶はみなピカピカ一張羅の正装である。しかし、一休だけは、ボロ衣、頭もきれいに剃っていない。一般常識では、無作法、礼儀知らずということなのだが、一休にしてみれば、「第一印象関係なし、見た目関係なし」である。

 なお、その頃の大徳寺の住職は一休の兄弟子にあたる「養叟」であった。叟宗曇と一休は大徳寺から離れたボロ寺で貧困の中、厳しい修行をしていたが、叟は大徳寺でヌクヌクとした生活で、禅宗商売の金儲けに走っていた。叟と一休は犬猿の仲だった。

 京でも、近畿一帯の旅でも、風変わりな奇抜な僧として話題になっていく。一休は話題になるようなパフォーマンスも上手だった。たとえば、正月に都の大路で髑髏を杖にのせて「ご用心、ご用心」と叫び闊歩する(その意味は省略)。パフォーマンスだけでなく、女郎屋で、誰憚ることなく、肉を喰らい、酒を飲み、女を抱くのだから、有名になるのは当然である。大衆は、きらびやかな高僧も秘密で同種の破戒をしていることを知っている。偽善者じゃない、ボロ衣の破戒僧一休こそ、本物の僧かも……と人気が高まっていった。

⑥応仁の乱

 南北朝合一(1392年)と応仁の乱(1467〜1477年)の間は、なんとなく平和な時代と思われているが、源平合戦から江戸幕府成立までの約400年間の武士の時代とは基本的に合戦時代、「切り取り強盗は武士の習い」である。したがって、京の市中は、強盗続出、乞食・浮浪者・放置死体は日常光景であった。しかしながら、貧しき者、弱き者を救うべき僧侶、とりわけ臨済宗僧侶は五山文化へ傾斜するばかりであった。

 そして、応仁の乱。京の寺社、公家・武家の邸宅は大半が焼失した。日本史上初登場した足軽組織は略奪・強姦・放火のやり放題、疫病も流行。それにもかかわらず、将軍足利義政は連日連夜の酒池肉林、正室の日野富子は応仁の乱勃発の原因者でありながら、東西両軍に金を貸したり、米を買い占めたり、関所を設けて通行料を取ったり、賄賂を貰ったり、さながら守銭奴・死の商人として莫大な資産を築く。

 デタラメな政治に対して、一休は幕政への批判者としても有名だった。『狂雲集』にも幕政批判の漢詩がある。

 なお蛇足ながら、日本三大悪女とは、日野富子、北条政子、淀君(または春日局)を言うようだ。北条政子、淀君(または春日局)を悪女と決めつけることに抵抗感を持つ人でも、日野富子は悪女ナンバーワンと評する。しかし、浪費だけが取り柄の足利義政の正室としては、稼がなければならない立場にあったことも確かだ。

⑦大徳寺再建

 応仁の乱によって、京都は地獄になった。大徳寺も焼失した。大徳寺は後醍醐天皇の頃は京都五山よりも上位にランクされる最高別格寺院であった。しかし、足利幕府が確立すると後醍醐天皇と関係が深かった大徳寺の格づけランクは急低下して、五山の下に位置する十刹となった。しかも、十刹の中の第9位である。そのため、大徳寺は足利幕府の保護・支援・管理を離れ、独自の道を歩んだ。五山文化に傾斜するのではなく、座禅修行に邁進する道をとったのだ。その結果、大徳寺は人々の信頼を獲得した。人々の心の中には、「幕府が大徳寺を軽視したから京都が生き地獄になった」「大徳寺再建が平和と京都の復活に必須」という感覚が強まった。

 御土御門天皇(1442〜1500年、在位1464〜1500年)は、不倫密通スキャンダル、将軍足利義政の連日連夜の宴会の常連メンバーというマイナス評価も多いが、敬虔な仏教徒であったことは間違いない。ついでに言えば、後土御門天皇の崩御に際して、皇室は完全に金欠で葬儀の費用もなく、御所に40日間遺体が置かれたままだった。

 1474年、後土御門天皇は一休(この時80歳)に大徳寺の住職になるよう勅命が下る。それは、焼失した大徳寺再建の命令でもあった。一休は地位や名誉を拒否する生き方をしてきたので、やや悩んだようだが、承諾した。再建資金の献金依頼のため京都・堺を訪ねた。皆、「一休の依頼ならば」と引き受けてくれた。そして、1479年、大徳寺の仏殿が再建された。

 しかし、一休は大徳寺に住まわず、都の外れの小さな庵(現在の一休寺)に住み、そこから大徳寺へ通った。大徳寺再建の2年後、一休宗純は87歳で永眠した。

⑧森侍者(しんじしゃ)

 盲目の美女である。一休は77歳で「森女」(年齢20代)と出会い、臨終まで同棲ラブラブの関係にあった。森侍者の素性は不明で、大別して2説あるようだ。ひとつは、盲目の旅芸人で一休がその境遇に同情して妾にした。もうひとつの説は、一休と同じく南朝系の血筋の女性であり、住吉神宮の巫女だった。そして、一休を大徳寺住職に承知させる目的があった、というもの。いずれにしろ、2人は同棲ラブラブであった。

(3)『狂雲集』

 『狂雲集』に収められている漢詩の数は、写本によって、約300首、約550首、約1060首ある。その中で、読んではいけないものが数々あるが、いくつかを適当に紹介しましょう。 

 一生受用する米銭の吟

 恥辱無知にして万金を攫(つか)む

 勇色美尼 惧(ぐ)に混雑

 陽春の白雪 また 哇音(はくおん)

 (坊主は)一生使う米銭なんぞ鼻歌みたいなもので苦労しない。

 恥をかいて無知を承知していれば大金をつかむことができる。

 男色を遊び、美しい尼さんとも、乱交する。

 陽春の白雪がピチャ、ピチャと音をたてるように、ハァハァとあえぐ気持ちよい声。

 ※この漢詩は、当時の仏教界を批判したものですが、露骨、辛辣ですな。 

 美人の婬水を吸う

 蜜に啓し自ら慚(はじ)ず、私語の盟

 風流の吟を罷(や)めて、三生を約す

 生身堕在す、畜生道

 潙山(いさん)戴角の情を、超越す 

 美人とは森侍者のことである。

 内緒ながら口に出てしまった、恥ずかしながら、2人だけの誓い。

 詩を読むのも止めて、三度生まれ変わっても愛するという永遠の誓い。

 生きた肉体が堕落して溺れる畜生道。

 潙山なる高僧は「自分の来世は牛に生まれかわる」と予言したが、そんな予言なんかよりも、2人の三生に続く畜生道は、はるかに素晴らしい。 

 婬水

 夢に上苑美人の森に迷うて

 枕上(ちんじょう)の梅花 花信の心

 満口(まんく)の清香 清浅の水

 黄昏の月色 新吟を奈(いかん) 

 夢で、すばらしい美人のいる森に迷いこんだ。

 枕の上の梅の花のたよりが、そうさせたのだろう。

 口いっぱいに清い香がする、清い浅瀬の水を含む。

 たそがれの月の色のようだ。俺の思考能力は麻痺して、この感動を表す新しい愛の詩を、何と歌ってよいのかわからない。 

 美人の陰(おん)、水仙花の香有り

 楚(そ)台(だい)応(まさ)に望むべし、更に応に攀(よ)ずべし

 半夜、玉床、愁夢の間

 花は綻(ほころ)ぶ、梅樹の下

 凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)る 

 美人(森侍者)の股間に水仙花の香が匂う

 楚王の楼代をながめて、それにまさに登ろうとした。

 その夢は、夜半のことで、夫婦のベッドであった。

 梅の花のつぼみがふくらみはじめた梅の木の下なのに

(凌波仙子とは、『三国志』の曹操の子である曹植の詩に出てくる仙女で、波の上を渡る。転じて水仙の花を意味する)。水仙の花の香が腰のあたりに溢れている。 

 まぁ、『狂雲集』には、こんな調子の漢詩が結構な数があります。「仏法とは何か」なんて、難しいことは考えないで、ニタニタすれば一休も喜ぶと思う。

(4)付録「婆子焼庵」、禅問答不可解なり

 禅宗、とりわけ臨済宗では「公案」が重要ですが、俗に「禅問答」と言われるように、不思議な問題ばかりです。公案集に『碧巌録』という本があり、その中に「婆子焼庵」というのがあります。公案の中でも、色っぽい内容なので、有名なものです。一休も、この公案に取り組んでいます。

 ある老婆がひとりの修行僧のために庵を建てて、何かとお世話していました。20年たって、老婆は「修行も相当進んだであろう、かなり高い境地になったであろう」と思い、テストを試みました。娘に「あのお坊さんに抱きついて、誘惑してみなさい」と言いつけます。娘が誘惑しても、その修行僧は少しも動揺することなく、「枯木寒厳に倚(よ)って、三冬暖気なし」と言い放った。つまり、「私は寒い厳しい冬の枯木で、暖気(女)に興味なし」と言って娘を退けた。

 老婆は娘の報告を聞いて「20年間も修行のお世話をしたのに、そんなレベルなのか」とカンカンに怒り、修行僧を追いだした。さらに老婆は庵も燃やしてしまった。

 さぁ、あなたなら娘に抱きつかれたら、どうする? さぁどうする?

 この公案に対する一休の『狂雲集』の漢詩回答は、次のものです。時期は森侍者との関係が始まっている頃です。 

 老婆心、賊の為に梯(かけはし)を通して、

 清浄の沙門に女妻を与う。

 今夜美人、若(も)し我を約せば、

 枯楊 春老いて、更に稗(新芽)を生ぜしめん。 

 老婆(お節介心)が、盗人のために梯子をかけるように

 清らかな修行僧に女を与えた。

 今夜、私に美人を与えると約束してくれるなら、

 枯れた楊(よう=やなぎ)も春が来て、新芽も出るよ。 

「俺なら元気になっちゃうな〜」って感じかな。ただし、理屈をこねれば、「美人」⇒「森侍者」⇒「悟りの境地」ということになるのかな。 

————————————————————

太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。

---転記終わり---
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