【ニッポンの分岐点】自動車産業(1)CVCCエンジン 「マスキー法」技術で突破
世界首位のトヨタ自動車を筆頭に、自動車産業は日本の誇る基幹産業だ。その実力を本場・米国に知らしめたのは、皮肉にも米議会が自ら制定した大気汚染防止のための環境規制「マスキー法」だった。その厳しさゆえに米自動車大手3社(ビッグ3)をはじめ世界の自動車メーカーが「実現は不可能」とさじを投げたハードルを、四輪事業に参入したばかりのホンダが世界で初めて飛越した。この快挙は、日本車の技術力を世界に印象づけるきっかけとなった。
◆宗一郎の号令
「米ゼネラル・モーターズ(GM)などビッグ3と、技術的に同一ラインに立てる絶好のチャンスである」
昭和45年8月、ホンダの創業者、本田宗一郎は埼玉県和光市にある技術研究所の食堂で、従業員にこうげきを飛ばした。本田の指示は、排ガス規制の克服。集まった500人以上の技術者らの顔に緊張が走った。
この年、米国では上院議員のエドモンド・S・マスキーが提出した大気清浄法の大幅修正案(通称・マスキー法)が議会で成立した。大気汚染の原因物質である一酸化炭素と炭化水素を1975年から、窒素酸化物を76年から、ともに従来の10分の1に削減した車でなければ販売を認めない、という厳しい内容だ。
当時、自動車業界の覇権を握るビッグ3は安いガソリン価格を背景に「ガスガズラー(ガソリンがぶ飲み)」と揶揄(やゆ)される大型車を作り続けていた。低燃費技術に対する業界の関心は低く、各メーカーはエンジンの高回転・高出力化に情熱を傾けていただけに、衝撃は大きかった。
バイクメーカーだったホンダは昭和38年、軽トラック「T360」で四輪事業へ参入。だがその後、大ヒットした軽自動車「N360」に欠陥が見つかり、満を持して投入した初のセダン「H1300」もクレームが相次ぐなど逆風にさらされていた。本田の指示は、四輪の最後発メーカーが攻勢に転じるための必須条件だった。
◆ロシアの遺産
45年当時、米国だけでなく日本国内でも大気汚染が深刻な社会問題となっていた。同年7月には、環七通り沿いにあった立正高校(東京都杉並区)のグラウンドで運動していた女子生徒が、光化学スモッグで「目が痛い」「のどが苦しい」と訴えた。環境庁(現・環境省)は53年に、米国とほぼ同じ内容の日本版マスキー法を導入することになる。
これに先立ちホンダは、41年に大気汚染対策研究室を立ち上げ、研究を始めていた。設立メンバーだったエンジン技術者の宍戸俊雅(後の常務)は「便利なものを作り、社会に貢献していると思っていたのに、窓が開けられないほど空気が汚れ、逆に害を与えていた。『何とかしなくては』という思いに突き動かされていた」と振り返る。
自動車エンジンは、燃焼室に燃料と空気の混合気を送り込み、燃焼させてピストンを動かす。混合気は燃料1対空気14・7の比率が、最も効率的であることが分かっていた。
この比率より燃料が濃いと、パワーは出るが不完全燃焼になり有害物質が発生する。薄いと燃料が完全に燃えるため有害物質は少ないものの、引火しにくい。低公害エンジンを作るには、できるだけ薄い混合気を安定して燃やす技術が必要だった。
ホンダはさまざまな燃焼方法を模索した。複数の点火プラグで着火する、混合気を加熱するなど試行錯誤を繰り返したが、目に見える成果は上がらない。「先発メーカーとは違う方法を試してみよう」と目を付けたのが、粗悪なガソリンを利用するためエンジン設計を工夫したという古いロシアの文献だった。
当時のガソリンエンジンでは使われていなかった副燃焼室の中で、まず濃い混合気に点火する。そこで生じた強い炎で、主燃焼室の引火しにくい薄い混合気に点火するメカニズムだ。実験すると、酸素不足による不完全燃焼を防ぎ、有害物質の排出が軽減できることが分かり、実際のエンジン作りが始まった。
徹夜は日常茶飯事。会議室で議論しながら進める時間的余裕はなく、現場で問題点を改善しながら猛然と作業を進めた。「あのころは何かが超越していた。眠らなくても何ともなかった」と宍戸は振り返る。
一定の軽減効果が確認でき、どうにかマスキー法をクリアするメドがついた。報告を受けた本田は、泣き笑いのような表情を浮かべてこう告げた。
「今から銀座で飲めるだけ飲んでこい」
その夜、開発メンバーは約60万円(当時の大卒初任給は約5万3千円)を使い、夜の街で大いに騒いだ。
◆世界一に躍進
ホンダは47年10月11日、東京の赤坂プリンスホテルで新開発の低公害エンジン「CVCCエンジン」の全容を発表した。会場を飾るブルーのパネルは、澄んだ青空をイメージした。同年12月には米ミシガン州にある環境保護庁(EPA)の研究所で搭載車のテストが行われ、合格第1号となった。
他メーカーも手をこまねいていたわけではない。米国ではマスキー法に先立ち1967年には米フォードなどが研究グループを立ち上げ、日本から日産自動車や東洋工業(現・マツダ)などが参加。トヨタも昭和45年に加入した。ただ、研究は、触媒を使う後処理装置での対策が中心だった。
1973年3月に米国で開かれたEPAの公聴会で、75年にマスキー法をクリアできると証言したのはホンダと、ロータリーエンジンの開発に成功した東洋工業だけだった。CVCC技術はまずトヨタに供与され、その後ビッグ3のフォードやクライスラーも取り入れた。
結局、マスキー法の規制はビッグ3の強力なロビー活動で延期された。だが、昭和48年10月に発生した第1次オイルショックでガソリン価格が高騰すると、発売されたCVCC搭載のホンダ「シビック」をはじめ、燃費性能に優れた日本車は米国への輸出を急激に拡大。55年には生産台数で米国を一気に抜き去り、世界一に躍り出た。CVCCの快挙は、環境技術が競争力を左右するという、今日に至る自動車産業の流れを決定付けた。宍戸は振り返る。
「CVCCが世に出たことで、自動車各社は渋っていた環境問題への投資をせざるを得なくなった」=敬称略(田辺裕晶)
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【用語解説】CVCC
ホンダがマスキー法の排ガス規制に対応するため昭和47年に発表した低公害エンジン。Compound Vortex Controlled Combustion(複合渦流調整燃焼方式)の略。触媒による後処理装置を使わずに有害物質を低減できるため耐久性にも優れ、マスキー法合格第1号のエンジンとして脚光を浴びた。